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         どうして川原カズキは、木工職人になったのか?
二転三転、紆余曲折のストーリーです。
 
         
   
川原 カズキ (カワハラ カズキ)

□ 1970年生まれ、大阪育ち

□ 大学卒業後、調理師としてレストランで勤務

□ 出版社に転職。大阪、東京にて勤務
旅行ガイドブックや自転車雑誌の
取材、編集、執筆に携わる

□ 信州は松本に移り住み
松本技術専門校の木材工芸科で学ぶ

□ 卒業後「スクエア クラフト ファクトリー」設立
2010年4月に安曇野市に本拠を移す




           
         
   
大阪出身です。
とはいえ、父は北海道、母は長崎なので、
生粋の大阪人というわけでもありません。

関西弁のアクセントが、いまだ、抜けません。
ちゃんと、標準語とおぼしき言葉づかいもできますが、
テンションが上がると、忘れます。

紙飛行機なら、関西のこどものように、
「うわぁー。めっちゃ飛んでるー!」となってしまいます。

小さいころから、ものをつくるのが好きで、
紙飛行機を倦むことなく折り続けたり、
学校の校舎より高く飛ぶ竹トンボをつくったり。
精密すぎて、子どもらしくない模型を作って、
図工の先生に怒られたことも…。




           
         
   
とにかく、放浪癖があります。
ひと所にとどまるのが不得意です。

旅が好き。
とにかく、あてどなく、どっかに行くのが好き。
小学生のころから、
友だちと連れだって、ちょっと遠くへでかけたり、
父母の実家へ、列車でひとり旅をしたり。

大きくなるにつれ、
しだいに、知らないところへと、
足を延ばすようになりました。

もっと、未知の場所へ行きたくなって。
高校のころからは、自転車が相棒になりました。
毎日、飽くことなく地図を読んで。
週末には、長い休みには、自転車を駆って、
あちこち出かけるようになりました。


           
         
   
大学時代は京都で過ごしました。
立命館大学の文学部地理学科。
開拓地、干拓地の集落社会構造の研究をしてました。

京都時代で「見る目が養われた」ように思います。
寺院に神社、名園に文化財。
見どころには、こと欠きません。
なかでも、枯山水の庭をとりわけ好むようになり、
気がつけば、禅寺でアルバイトしてました。
虚飾を排した「わびさび」の利いた風景や意匠は、
いまのモノづくりに、大きく影響しています。

大学は、夏休み、春休みが長いから、
自転車で長期のツーリングに出ました。
夏休みは、北海道へ。春休みは、九州へ。
来る日も来る日も、北の国を、南の国を走り続けました。





           
         
   
大学3年生が終わったところで、
学校を、1年間休学しました。

日本より、もっと広いところを
自転車で走りたかったから。

というのも、あるのですが。

大学を卒業して、なにをやりたいか、わからなくて。
答えを留保して、考えたかった、というのもあります。
最近では「ギャップ・イヤー」と呼ばれたりもします。

※ギャップイヤーについては、
NHK「クローズアップ現代」のwebサイトが、わかりやすいです



オーストラリアへ行きました。
そのときのことは、安曇野クラフト日記
「泣ける地図 -20年前、アデレードで-」に記してあります。


振り返れば、ここが、私の人生のターニング・ポイントでした。




           
         
   
オーストラリアで出会った
鉄の工芸作家の暮らしが、
いまの私の生きかたに、色濃く反映されています。

オーストラリアに行かなければ、
鉄の作家、ジェフ・バーンズさんと出会わなかったら、
木のクラフト職人、
川原カズキは存在しなかったでしょう。


職人の仕事に惹かれた。
そして、
生きかたそのものに惹かれました。

たんたんと作って、ひとやすみ。
そして、たんたんと作って、食事をして。
また、たんたんと作って、一日が終わる。

そんな生きかた。
こんなふうにできたら……。


といっても。
すぐ木工の世界に入ったわけでもなくて…。

ここから、紆余曲折が始まります。



           
         
   
帰国し、大学を卒業。

料理の世界に入りました。
自分の持っている能力のなかで、
いちばんモノになりそうなのが、料理だと思っていました。

しかし。
料理人として、身を立てることは、できませんでした。

でも。
料理のことを、食材のことを
たくさん知ることができました。

バターのことも。
工房で製作しているバターケースは、
バターのことを、ひととおりであれ、知っているから、
アイディアを出せる。
いま、思えば、得がたい体験でした。



           
         
   
その後、出版社へ転職。
本の編集者になりました。
旅行ガイドブックや、自転車の雑誌の編集をしたり、
記事を書いたり、写真を撮ったり。

本の編集、記事づくりで得たもの。
熟考して、工夫して、いかに伝えるか。

そのために費やした日々が、いま。

工房でつくったものを
見ていただく、知っていただくにおいて、
とても、役立っています。

文章の書きかた、デザインのやりかた。
それなりに、ですが、磨かれました。
工房のwebサイトの制作、デザインまで、
すべて自分でできるのも、この時期のおかげです。


           
         
   
本づくりに追われていた、ある日のこと。

『自分で作って、売って、暮らして行こう』

そんな思いが、湧きあがってきました。

作るという意味では、
料理でも、本でも、良かったし、
それなりに満足していたのですが、
もっと、じっくりと取り組みたい、という気持ちがありました。

工芸のことは、むかしから好きで、
伝統工芸を中心に、機会があればみていた。

むかしから、器用さは、特技のひとつ。
いまからでも、たとえ新しいことでも、
吸収できる、こなせる自信はある。

表現する力、伝えるテクニック。料理のこと。
これまで、やってきたことも、きっと、活かせる。

そして、オーストラリアでの出会いも、
ずっと、心の奥底に、深く、根を張っていました。


『きっと、いまなら、できる』
そう、確信できたのです。


           
         
   
木工職人になるために。

大阪、東京で、10年近く励み、勤めてきた
編集者の職を、きっぱりと辞して。

信州は松本に移り住みました。
木工のことを、技術専門校で学ぶためです。

松本技術専門校の木材工芸科で、1年の訓練。
長野県の技術専門校はレベルが高く、
全国から木工を志す者がやってきます。

一心不乱に、ノミやカンナを研ぎ、
飽くことなく、木と向かい合い、
倦むことなく、木工機械を回し続けました。

まさしく恩師である、指導員の先生、
同級の訓練生との出会い。

みっちり、1年間。木工漬けの、濃密な日々でした。


           
         
   
技術専門校での訓練を修了してから、
日雇いの木工仕事をしつつ、
工房となるべくところを探しました。

安曇野という場所にこだわったので、
けっこう時間がかかりました。

2010年4月に、いまいるところ、
安曇野は堀金の里に
工房を構えることができました。

そして、わたしも、
オーストラリアで会った、ジェフ・バーンズさんのように。

たんたんと作って、ひとやすみ。
そして、たんたんと作って、食事をして。
また、たんたんと作って、一日が終わる。

そんな生きかたをしています。


工房については、
当webサイト「工房についてご案内」をご覧ください。


           
         
   
いろんな経験があって。

いまの私の仕事があります。
これまで、得てきたものを活かして、
「“作るだけでない”木工仕事」を
日々、実践しています。


いろんな出会いがあって。

そのほとんどが、感謝すべき出会いです。
にもかかわらず、
その気持ちを伝えられていない人がいます。
願っても、もう会えない人もいます。


もし、このページを読んでいただいているのなら

「ありがとうございます」
「ありがとうございました」

締めの言葉にして、自己紹介を終わります。


川原カズキ/スクエア クラフト ファクトリー


           
         
 
                                       
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